女の又ぢから
怒るのは身体にも精神にもよくないと思ってはいるのだが……。
「不完全性定理」と同じく、自分ではその怒りの客観性・正当性などわからんのよね。
どんな怒りにも必ず理由があるが、それがもっともな理由であることは少ない。
ゲーム中、相手選手やレフェリーに文句を言っても絶対に得することなんてないよ。怒りはモチベーションを下げるし、だいたい、俺はゲームが中断するの好きじゃない。それにさ、怒るのって体に悪そうだよね。
だいたいいつも怒った後に後悔して、そのたびにあぁ「人格者」になりたい、と思う。
怒って数秒後にはもう、下手すれば怒ってる途中に後悔してる。
引っ込みがつかなくて後悔しながら怒り続けるなんていうマヌケなことも。
その怒りだしの一瞬にワンクッション置くことができれば、どれだけ多くの怒りが収められただろうかな、と思う。
次からはきっと……と思いながら、同じことを繰り返すわけだ。(^^;;
人格者に「見られたい」と思えば、一度怒っちゃった相手にはもうリトライは不可能だが(人の評価というのは落ちるのは簡単で、上がるのは至難)、人格者に「なりたい」と思えばやり直しはいくらでもきく。
え? いくら怒りを抑えつけても心の中で怒ってるんなら、それは外から見える部分を飾ってるだけでほんとは「人格者」でも何でもないだろうって?
人は見えたとおりのものでしかない。
のですよ。
哲学の話だったかで、「人がいなければ、山の木は倒れる時に音を出すだろうか?」とかいう設問があった記憶がある。
普段、山の木は倒れる時にまったく音を出していないのだが、人とか、あるいはマイクなど「観察者」がいる時にだけサービスで(^O^)音を鳴らしているんじゃないか。
つまり「観察者」がいるときにだけ(/いるからこそ)物理法則が成り立ってるんじゃないかというわけ。
そんなことあるわきゃないと思うかもしれないが、これはこれで何の問題もなく事実にハマる。
少なくとも論理的な破綻はない。
だって確かめようがないもん。
じゃあどっちが正しいのか。
この設問の答えはおそらく、「どっちでもいい」。
つまり、複数の説明があって、どれで考えても現象がまったく同じなんだったら、どの説明をとってもかまわないってこと。
ただしK先生も仰るごとく、「簡単な説明があるなら、それを採用するのが科学的」であり、「今日まで成り立っていた法則は明日も成り立つと信じるのが科学の立場」なのだ。これ重要。
何でこんな話が出たかというと、人格も結局、外から観察されるものこそ「人格」で、観察されようのない「内面」は、少なくとも「人格」を判断する観察者にとっては「どうでもいい」話なんだというたとえ話。(^O^)
本人としては外面と内面が別々にあると考えたくなるんだけど、実はそんなのは幻想なんじゃないかと。
「人格」というのは結局、自己が求めるもの、主張するものではありながら、それを完成させるのはあくまで他人の認識でしかないのだから。
他者の観察なくして「人格」はない。
だから自己認識の中での「外面」を操作すれば、人格は出来上がる。逆に「内面と外面のギャップ」に悩むことなど、それほど意味はないのかもしれない。
だから結局、根のところでは人格者に「見られたい」と「なりたい」はつながっている。……んだけど、とはいえ「(人格者に)見られたい」と「(人格者に)見えるようになりたい」とは厳然と違うんだなあ。
ややこしいな。(^^;
逆に、怒るべきところをちゃんと認識できずにあとで「あそこは怒るべきだった」と思うこともよくある。
怒るにしろ怒らないにしろ、一瞬の判断ができないというのは一緒で、これが遅いのはとてもダメなことだと、私は我ながら思うのよ。
どっちも鍛えようがあると思うんだけどねぇ。(^O^)
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