ちょっとした光明
先日、「女性校長会で江本勝が講演」というエントリで
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ほんと、自浄能力を発揮することを望む。 「女性校長会」は、今からでも誤りを誤りと認める健全性を示してほしい。 今回の件は、むしろ教育現場を蝕みつつある『水からの伝言』について、校長会自らがその非健全性を指摘し、排除する好機と捉えるべきだ。 女性校長会、頑張れ。 |
と書いたのだけれど、私と問題意識を共有している友人N氏(教育学部で教えている)が、実際に女性校長会に問い合わせて返答を得たそうだ。(kikulogでコメントしてるのがN氏)
なかなか建設的なというか、前向きな話ができたようで、まずはひと安心といったところ。
教育現場が『水からの伝言』への免疫をつけるための、これが好機となってくれればいいんだけどなあ。
いやほんと、「校長って人種はバカだから」的な非難をしたところで、始まらないんですよ。そこで終わっちゃう。(いや、バカはバカだったわけだけども)
しかしもしこれを『水からの伝言』みたいなヒドい話が教育現場に浸食するのを防ぐ1つのきっかけにすることができたら、まあ雨降って地固まる、と申しましょうか(^^)、災い転じて福となすといいましょうか(^^)、これこそがアウフヘーベンなのであって(^O^)、喜ばしい限りじゃないですか。
そうなってくれることを願っているし、実際に行動したN君にも、ちゃんと耳を傾けた校長にも敬意を表しておきます。
kikulogでN氏は、
「(N君が教育学部で教えている)学生には、現場に出ても、善意だけではなくちゃんと考えてやりなさいよ、と言ってます。(^^;; 」
と書いている。
これは、
「善意であればなおさら、ちゃんと考えてやりなさいよ」
とも言えるかもしれない。
善意はある意味、免罪符になり得る(やっている本人に対しても批判者に対しても)ので、取扱いには注意が必要だ。
突然食いたくなったものリスト:
- クリームソーダ
本日のBGM:
大行進 /凱旋MARCH
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これは非常に理想的な展開の一つですね。誤った知識が提起され大勢として受け容れられかけたとしても、それを鵜呑みにするのではなく、疑問を感じた方が異論を提示して議論が起これば、それは健全な成り行きだと思います。
Nさんのような方からの外部からの意見がなければそれが起こらなかったというところに不安を感じないでもないのですが、逆に謂えばニセ科学批判の言論がそのフェール・セーフを用意しているということでもあるでしょう。
また、この件では、校長という影響力の強い立場の人々の間で水伝が受け容れられたということが深刻な脅威と受け止められたわけですが、これも逆に謂えば影響力の強い人々の組織で水伝の問題点が指摘されれば、その影響力もまた大きいわけですから、教育現場から水伝を一掃する好機となるかもしれません。
関東の女性校長の管掌する教育現場で、校長先生が水伝を支持する講話の代わりに批判的な内容の講話を語り、あるいは職員会議で個々の教師たちに厳重な警戒を呼び掛ける、それが主流的な風潮として他校にも伝播していき、さらに関東から全国に拡がって、丁度TOSSとは逆の作用を及ぼす、そして、今後の総会の講演では江本勝氏ではなく天羽さんや菊池さんが呼ばれることになる、そういう成り行きになれば、これほど理想的な展開はないのですが。
そうなれば、水伝ばかりではなく、EM菌だのマイナスイオンだのという諸々のニセ科学に対する注意も効果的に喚起することが出来るでしょうし、本来ニセ科学批判の言論は教育者からの支持がなければ基礎的な常識として世間に定着するのが難しいと思いますので、教育現場との連携が深まっていけばさらに理想的ですね。
まあ、「なにそのバタフライ効果」って楽観論ですけど(笑)、ホントにそうなると好いですよね。
Nでございます。:p
エントリどうもありがとうございます。
自分のウェブで若干の詳細を公開しましたが、こちらにもURLはらせてください。
http://astro.edu.nagasaki-u.ac.jp/~masa/misc/mizuden/
> 黒猫亭さん
こんにちは。黒猫亭さんのブログも読ませていただいております。今回のエントリもそうですが、特に「未だ『歴史』ではない事柄」は、自分の考えを整理する上でも参考になったし、なによりこういうしっかりした考察がエントリとして上がっていることに、希望を見出します。
> 逆に謂えばニセ科学批判の言論がそのフェール・セーフを用意している
ホントにその通りだと思います。みんながみんな、同じ様な批判や抗議をする必要はないんですよね。じっくりと分析した記事がネット上にあるだけでも随分違うと思います。
いい方向で話が進むよう、しばらくはこの問題に関わっていきたいと思っています。
>黒猫亭 さん
>N さん
すみません、N君のコメントが反映されるまで時間がかかってしまいました。
最近、MovableTypeの調子が悪いんです。ゴホゴホ……。
というわけで、これから校長会がどういう対応をされるかは注目しておきたいですね。
伝わったことだけで満足してはいけないので。
ただ、とりあえず今は伝わったことだけでも喜んでおこうと思います。
>まあ、「なにそのバタフライ効果」って楽観論ですけど(笑)、ホントにそうなると好いですよね。
いえ、やっぱりそういうことなんだと思います。
N君、お疲れ様です。GJ!
>Nさん
過分なお褒めの言葉に与りまして恐縮です。Nさんのような発言力がある立場の方(というふうに外部から視られていると思いますので)が積極的にこういう試みを実行してくださるというのは頼もしいことだと感じます。これで終わりではないのでしょうが、ひとまずは、お疲れ様でした。
今回の件で考えさせられたのは、教育現場にニセ科学批判の言説を届かせる為のチャネルということで、教育者の方は一般に剰りネットに親しむ余裕がないという話を何処かで聞いた覚えもあり、ネット言説というチャネルではなかなか届かないのかな、と危惧していました。
かと謂って、たとえばオレのような独身男性で教育現場とは何ら接点のない人間が直接コンタクトしてもマトモに相手にされるかどうか、というところですし、お子さんをお持ちの論者の方なら接点があるけれど、子供の親という立場の方に対しては、教師サイドも警戒して表面的なクレーム対応に終始する弊もあると思うのですね。その点、教育者の育成に直接携わっておられる方が、身分を明らかにしてご意見を寄せられるというのは、(権威という意味ではなく)チャネルという意味で大変効果が大きかったと思います。
言及戴いたように、ウチのほうでも拙い試論を試みてみましたが、コメント欄での遣り取りでは、やはりというか、教員が置かれている厳しい現実もまた大きな要因だというご意見も出ていますし、早回しに楽観論を語ってはみましたが、なかなか難しい問題ではありますよね。
皆さんが語っておられる善意の問題とも関連してきますが、オレ自身は基本的に社会というのは概ね善意の人のほうが多いのだと考えていますし、大きな拡がりを持つ問題を単純に悪意や怠慢と批判することは問題の本質を見失うことだと考えています。それ故に、水伝授業の問題でも今回の女性校長会の問題でも、基本は善意から出たことなのだと思いますし、水伝が受け容れられたことも「愚かだ、莫迦だ」という非難の視線だけで視ていては見えなくなる事柄があるんじゃないかと考えています。
ではどうしてなんだろう、という疑問が、世間と教師の間に「嘘事」に関する感度の違いがあるんじゃないか、それ自体は非難さるべき事柄ではないのではないか、という考えに繋がっています。本職の方のご高覧に供するのも面映ゆい素人考えですが。
少し長くなりますが、この「嘘事に対する感度」ということでは、実は随分前の経験にそう考えるようになった遠因がありまして、個人的な話で恐縮ですが、オレは嘗て編集職に専ら従事していた時期があって、そこで「子供」という表記が嫌われるということを識りました。これはなんでだろうという話を職場でしていたら、教育学部出身の若い子が「そういうふうに大学で教わった」と言うんですね。
何分要領を得ない説明だったので、正式にそのように教えているのか、教員個人が余談として話したのかは定かではないのですが、その子が言うには「子供は大人の『お供』じゃないのだから『供』という漢字は避けて『こども』か『子ども』と表記すべきだ」というふうに学校で教わったというんですね。ああ、そこに発端があったのか、と。
これは言うまでもなく、一般的な感覚で謂えば「嘘」ですよね。「子供」の「供」というのは「お供」という意味ではなく、「大供・小供」というふうに大人に対しても使う複数を表す「ども」の意ですし、「供」という字に「お供」という一義的な意味があるわけではありません。ですから、「子供」という表記が間違っているという話ではないわけで、「子供」という字面を視ると「子供は大人の付属物だ」というふうに連想する弊害があるから、その字遣いが正しくても遣うのはやめましょうという話なわけです。
これ自体、「ホントにそうかあ?」という話で、さらにその真意を憶測するなら、そのようにマニフェストして従来自然に遣っていた字遣いを改めることそれ自体が「子供は大人の付属物ではない」という認識への気附きの契機になるという「方便」の性格があるんじゃないかと思います。で、それが何らかの形で社会に流出した結果、なんだか理由はわからないけれど「子供」という表記が嫌われる結果になった、と。
差別語や配慮語などにもこういう方便としての性格があると思うんですが、一般的には差別語は差別を助長する悪い言葉だというふうに認識されていると思うんですが、そもそもは、差別のみを一義的に指向するわけではない言葉に内在する差別的なニュアンスを敢えて問題視することで、自明性の陰に隠れて意識されない自身に内在する差別意識に対する気附きの契機とする、そういう方便の性格があったと思うんです。
ただ、方便はやはり方便で、一種の嘘ではあります。そして、そのような嘘を方便として用いて意識を啓発していくやり方は、一面では意識啓発の道具として言葉をどんどん消費的に遣い捨てていくやり方だと思うんです。或る社会的弱者を示す言葉というのは常に必要とされているわけですが、それを意識啓発の為に忌避することで代替する言葉が生まれる、そしてそれが定着すればさらにその言葉の自明性の陰に隠蔽された差別意識を啓発する為にそれを忌避する、そういう機序でどんどん言葉が遣い捨てられていくわけです。
で、そういう一面では問題含みの言説の大きな発信源というのは、一般に教師だと視られていると思うんです。非常に俗なことを言えば、日教組→左翼→言葉狩りみたいな安直な連想があるわけで、オレもそういう偏見を持っていないわけではないと思います。それが発端となって意識して考えると、どうも教師一般というのは方便や嘘事を語ることに剰り抵抗感を持っていないのではないか、そういうふうに考えるようになったという順序です。
しかし生身の教育者がどのように考えているのかということは、外部からはよくわからない部分がありますので、そういう「嘘事」に対する感度の問題についてはどうもモヤモヤしたまま現在に至っている部分があります。今回上げたエントリーが及び腰だというのは、そういう「わからない」部分を含んでいるからで、オレ視点の関心で言えば、その部分のモヤモヤした疑問が解消出来ることを望んでいます。
こんにちは。すっかり遅くなってしまいすみません。
黒猫亭さんの問題意識を深める材料として、学習指導要領解説を眺めてみると面白いんじゃないかと思います(100円ぐらいで大きい本屋なら売っています)。○年生では~という事象に触れるだけにとどめる、みたいな文言が結構出てきます。文科省からその学年で教えるべき範囲と程度が限定されるわけです。したがって、教師の裁量は、その範囲の中でしかありません(通常の教科の授業の話です。総合的な学習などではまた違ってきますが)。
これはやはり子どもの発達段階に応じた指導方法が要請されるからで、まったく同じ内容を教えるにしても8歳の子どもと40歳の大人では違うやり方が必要になります。ここで発達段階と言っているのは単にどれだけの知識を持っているかと言うことではなくて、人間が成長する過程で身につける認識の方法などを含めたものです。
まあ実際の学習指導要領がそれを正しく踏まえたものになっているかと言うと色々言いたいことはあるのですが、基本的な発想はこんな感じのはずです。
何が言いたいかと言うと、教師にとっては教えるべき内容がまずあって、それをどうやったら理解させるかで悩む、というのが、ある意味通常のスタイルであるということです。だから、教えるべき内容は「そういうもの」としてあるのであって、常に自分が発見したり感動したりしたものではない。高校だと専門性が高いのでまた違うでしょうが、小学校では全教科教えないといけないので、所与のものとしてある場合が多くなる。
これは「汚い言葉を使う子どもをなんとかしたい」という発想と(おそらく)似ていて、教師の直感として「これではいけない、なんとか綺麗な言葉を使わせたい」というのが前提として出現し、ではどうやったら身につけさせられるだろうか、というところで悩む。すると、どんな教材だったら使えるか、という発想になるのは自然だと思えます。ましてビジュアルに大きい写真で迫られたら。他でも授業実践されているという話を聞いたら。「これだ!」と思うでしょう。そして教師が自分の中で子どもに綺麗な言葉を使うことの重要性を理解させるまでのストーリーがイメージできれば、教材に多少の問題はあるかもしれないと思っても(本質的な問題があるということに気づかなければ)、その線でいっちゃうのではないかなあ、と。
これは嘘に慣れるというより、目的が違うということが大きいのではと思います。水伝を使った教師は水伝の中身はどうでもよくて、その結論だけに飛びついたわけです。その結論があって、もっともらしい「根拠」が書いてあって、綺麗な写真があり、活字になって出版されている。授業のイメージがパッと浮かぶと思うのですよね(黒猫亭さんがおっしゃられている嘘事というのはこういうのも含めてになるのだと思いますが、「嘘」の中身も検討しないと見えてこないことが多いのではとも思います)。
なので、教材の中身を多面的に吟味するというプロセスを経ないとたぶんどうしようもないのだけれども、時間がなくて(あるいは情熱のあまり盲目的になって)自分で組み立てたストーリーでエイヤッと授業してしまうだろう、と思っています。
このあたりは難しい問題がいくつもあるのでなかなかスッと書けず長くなってしまいました(黒猫亭さんに感化されたかも(笑))。本来、教育学の範疇で深められるべき事柄だと思うので、折にふれて同僚には提起していきたいと思っています。
>Nさん
ご丁寧なご解説、ありがとうございます。こちらのほうも、週末か不定期な休みの日にしか纏まったものが書けませんので、お気遣いなく気楽にお附き合いください。
>>黒猫亭さんの問題意識を深める材料として、学習指導要領解説を眺めてみると面白いんじゃないかと思います(100円ぐらいで大きい本屋なら売っています)。
これはまた、凄いヒントをがっつり戴いたという感触です。早速立ち回り先の書店で探してみましたが、見当たらないので尼で一括購入しました。差し当たって国語・理科・社会(算数はうっかり忘れてしまいました)の三教科に生活編と道徳編、総合的な学習編の計六冊を発注しましたが、これでも六百円台なのですから貧乏人の懐にも優しい優秀な資料ですね(笑)。
まあ、本体の出版コストの大半は我々の血税で賄われていて、申し訳程度に価格が附いているのは冷やかしのロスを防ぐ為でしょうから、有り難く利益還元を享受させてもらいました。総額一五〇〇円以上にして送料を浮かせる為に同時発注したのが「クイーンズブレイド」だというのは、みんなにはナイショです(笑)。クイーンズブレイドが何であるかは聞かないでやってください(笑)。
水曜日くらいに届いたので、手始めに道徳編を読んでみましたが、かなり好い手応えを掴んだ感じです。何となく推測していたことが裏書きされたり、逆に実態を捉えていなかった部分なんかもあって、やはり資料に当たるということは必要だと痛感しました。
>>文科省からその学年で教えるべき範囲と程度が限定されるわけです。したがって、教師の裁量は、その範囲の中でしかありません(通常の教科の授業の話です。総合的な学習などではまた違ってきますが)。
これは、道徳のような一見自由度が高くて然るべく思える教科でもそうなんですね。かなり詳細且つ逐次的に決まっていて、その所与の目的に至るロジックまで細かく決まっている。教材の工夫や注意点まで細々と要求事項があって、ここまで煩瑣いとはさすがに思いませんでした。
>>何が言いたいかと言うと、教師にとっては教えるべき内容がまずあって、それをどうやったら理解させるかで悩む、というのが、ある意味通常のスタイルであるということです。だから、教えるべき内容は「そういうもの」としてあるのであって、常に自分が発見したり感動したりしたものではない。
これは、児童教育が全学校(こういう用語も初めて識りましたが)・全学年を通じた総合的な計画の下に段階的に施されるということでもありますよね。一時に全部の理路を教えるわけではない。それが出来るのは大人だけですから、或る程度即物的に考えざるを得ないということと、各学年の担任は或る知識の体系があってそれを子供に教えるという全体的なプロセスにおいて、たとえば六年間の中の一年間という部分だけを担うという意識でもあるのでしょうね。
重要なポイントだと感じたのは、「児童はそういうふうに発達段階に応じてしか教育出来ない」という現実の事情だと思いました。たとえば水伝授業批判などで、「美しい言葉と汚い言葉を機械的にリストアップして教えるのは良くない」という批判がありますが、幼稚園段階から低学年までの児童の発達段階では、リストアップされた言葉を弁別して使い分けるという習慣附けの訓練がそもそも難しいわけですね。
そういう意味では、亀@渋研Xさんのお子さんが水伝授業を受けたのは小学二年生の頃だそうですから、まさに機械的な習慣附けの訓練として水伝が利用されたということになるのでしょうか。
また、指導要領を視ると第1学年および第2学年の内容として具体的な指導内容が複数挙げられていますが、かなり初歩的な道徳教育においては、水伝を教材として用いればこの内容の複数の条項に関連附けた授業が可能になることがみてとれました。たしかに水伝というのは、低学年向けの道徳の教材として非常に便利です。
>>すると、どんな教材だったら使えるか、という発想になるのは自然だと思えます。ましてビジュアルに大きい写真で迫られたら。他でも授業実践されているという話を聞いたら。「これだ!」と思うでしょう。そして教師が自分の中で子どもに綺麗な言葉を使うことの重要性を理解させるまでのストーリーがイメージできれば、教材に多少の問題はあるかもしれないと思っても(本質的な問題があるということに気づかなければ)、その線でいっちゃうのではないかなあ、と。
その「本質的な問題」がかなり大きなウェイトを持っていて、児童に対する影響力が強いというのが水伝授業がダメな理由なんですけれど、教材として大変打って付けに感じるという感覚はわかりますし、真面目な教師たちが水伝の「本質的な問題」を何故弁別出来なかったのかという疑問に対して大きなヒントになると思います。
近日中に、中間報告も兼ねて自分のところでエントリーを立てたいと思うのですが、さすがに一冊一〇〇円の資料を何冊か読んだだけで教師と同レベルの専門的知識が身に付くくらいなら、Nさんのお仕事は必要ないということになりますから(笑)、多分素人考えで誤解している部分もあると思います。
よろしかったら、そういう素人臭いミスについてご指摘を戴けたら有り難いと思いますけれど、よろしいでしょうか。いや、無理矢理お誘いしているようで恐縮なんですが。
>>このあたりは難しい問題がいくつもあるのでなかなかスッと書けず長くなってしまいました(黒猫亭さんに感化されたかも(笑))。
この癖がうつるとあちこちで嫌われますからご注意を(笑)。でも、まとめのページの文章を拝読する限り、元々かなり懇切丁寧に説明される方だとお見受けしますけど(笑)。