峠越え
仕事で奈良に行った帰り、時間もあるし高速道路を使うまでもないと、峠越えを楽しむことにした。
麓の住宅地から入り、ずんずんと昇っていくと、だんだん民家もがまばらになってくる。そして民家がすっかりなくなり、いよいよスピードを上げようとアクセルを踏み込んだ瞬間、何かが目の前に飛び出してきた。
慌ててブレーキを踏んだ。
ビートはABSがついていないのでタイヤは即座にロックし、滑る感覚が体に伝わってきた。スローモーションのように風景が流れた。
立ちつくした若い女性がこちらを向いている。その驚いた表情まではっきりと分かった。
「止まれ、止まれ!」
そう心で叫びながら、目一杯ブレーキを踏んでいた。
幸いにも、クルマは彼女にぶつかることなく、すんでの所で止まってくれた。
「あぁ......」
全身の力が抜けていくような感覚だった。
女性もそれは同じだったのか、その場に倒れ込んでしまった。
「ふぅ......」
ともかくも、よかった。
そう感じながら、サイドブレーキを引き、ドアを開けて飛び出した。
溶けたタイヤの嫌な匂いが鼻をつく。
「大丈夫ですか?」
その時にはもう、彼女は立ち上がろうとしていた。
「はいッ」
女性の声は意外にも力があり、私はまた安心した。
私は彼女に手を貸した。手は少し冷たいようだった。彼女が立ち上がり、私と向き合う形になった。その時、私は思わず「ひぃッ!」と声を上げてしまった。
服の胸から腹にかけての部分に、大きな赤い模様のようなものが見えたのだ。血の色だった。
いや、クルマはぶつかっていないし、倒れたのだって、そんなに衝撃があるような倒れ方じゃなかった ── 。
一瞬の安心があった分、動揺は大きかった。さっきから驚いて安心してまた驚いて、感情の起伏が極端だ。
「だ、大丈夫ですか どうしたんですか!?」
「私は大丈夫。でも......」
彼女はそう言って、自分が抱えているものに目をやった。
私はかなり動転していたようで、そう言われるまで彼女が荷物を抱えていることに全く気がついていなかったのだ。一瞬、彼女の服についている血のように見えた赤い色は、その荷物の色だったのだ。
その「荷物」は......血まみれの赤ん坊だった。
「ど、どう......!?」
「早くッ! 病院に! お願いしますッ。お願いします!」
彼女はうわずった声で、私に訴える。
「わ、わかりました。ク、クルマへ」
「早く、早く」
そうするしかなかった。
クルマに乗り込むと、彼女は私をますますせき立てた。
「で、でも、どこに......」
「近くに病院があります! そこにお願いします」
「わ、わかりました」
急いでクルマをスタートさせた。
「このまま峠を越えて下さい!」
「はい!」
とは答えたものの、こちらは気が気でない。私がやったのか? いや、彼女が倒れたときに赤ん坊が投げ出されたのなら、厳密には私の責任ではないはずだ。あるいは私のクルマの前に飛び出す前に、すでに赤ん坊はけがをしていた......? そんなことが一瞬で頭の中を駆け巡った。
「あなたのせいじゃない!」
私の心を見透かしたかのように、いきなり彼女が大きな声を出した。驚いて彼女を見ると、視線は赤ん坊と進行方向ばかりを往復し、私を見てはいなかった。
「ちゃんと前を見て!」
そう言われてあわてて私も前を見た。
「......赤ちゃん、けが?」
我ながら間抜けな質問を吐くくらいしかできなかった。
「早く、病院に行かないと!」
「あ、ああ......」
私のせいではないという言葉に、私は少し安堵していた。不思議なことに、自分のせいではないと言われたことで赤ん坊を助けてあげようという気持ちは強くなったように思える。本当は自分の責任であった方が、赤ん坊には助かってもらわなくてはいけないはずだが、きっとその時は自分が「助かりたい」と思うのだろう。さっきまでの自分がそうだった。自分の責任でない分、「助けてあげたい」という気持ちになったのだと思う。
何とかしてあげたいと思うと、アクセルを踏む足は強くなった。
「そこを右!」
「そこのカーブは見通しが悪いので気をつけて!!」
「そこで強くブレーキ!」
この近くに病院があることを知っているのだから、近所の人なのだろう。土地勘がかなりある。何度もこの道を通っているようだ。
彼女のナビゲーションは正確で、私はかなりスピードを出したにもかかわらず、とても安全に、そして自分でも驚くほど速くクルマを進めることができた。
「ああ、何とか助かって!」
「早く、早く!」
しばらく走っているうちに少し冷静さを取り戻した私は、いろいろ聞いてみたいことが出てきていた。しかし、隣で祈るように声を枯らせている女性に、どう聞いてみるべきか思いつかなかったし、第一このスピードでは彼女のナビに従ってハンドルを切るのが精一杯で、隣をのぞき見ることすら難しかった。
「もうすぐです! その門を曲がって少しまっすぐ!」
「あああああ、どうしてこんなことになったの......。ああ、神様......この子を助けて!!」
もう、つぶやきではなく、叫びになっていた。
私は私で、もうすぐ助かる、ああよかったと、本気で思っていた。
この時は本当にこの子が助かって欲しいと思っていた。
「向こうの方に見える信号を右に入ってすぐです! あああ速く! 間に合わないッ」
「わかりました! もうちょっと、もうちょっとですから! がんばれよ!」
見通しもよい直線だったので、私はめいっぱいアクセルを踏んだ。
「早く! 早く!」
彼女の叫びは一層大きくなった。
「頑張るのよッ! 私の......」
その瞬間、声が止んだ。
え? と思ったが、このスピードに、私はよそ見をできずにいた。
病院の看板が見えた。
「......また......間に合わなかった......」
さっきまでとは全く違う、力のない声が聞こえた。
え? 何が? 何が「また」?
え?
たまらず私は隣を見た。
隣には、誰も、座っていなかった。
私はせっかくたどり着いた病院の横をただ通り過ぎるしかなかった。
その後、何度か彼女の話を耳にした。
きっと彼女は、病院に間に合うまでずっと、あそこで少しでも速いクルマを待ち続けるのだろう。
突然食いたくなったものリスト:
- 天ぷら
本日のBGM:
Shout /SCOOTERS
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結構スリリングな展開ですな。
フィクション転向?
へっくしょん!! (意味無し)
「いや、あくまで実話です」と強固に言い張られたら、それはそれで別の意味で怪談だと思います(笑)。
これはポエムです。(^O^)