思い出話とか
大阪大学サイバーメディアセンター教授の菊池誠さんは、不定期ではあるけれど「かわいい物理」というサイエンス・カフェをやってる。
私も何度か足を運んだ。
いろんな知らなかったことがわかってなかなか刺激的だった。
私はたまに、「ある一言で、悟った気になれる」という瞬間があって(^O^)、まあそれが正しいかどうかはアレかもしれないが、とにかくそういう瞬間はとても気持ちいい。
で、この「かわいい物理」では、そういう瞬間が2つはあったと記憶している。
1つはカオス理論の話。
ここに解説されているような、「100%当たる天気予報はできるか?」みたいな導入からの話。
ここで私は↑で解説されているそのまんまの、
「それは観測技術の問題ですか? それとも原理的な問題ですか?
という質問をした。
「うーん......、原理的な問題ですね」
という答えで、「ああ、なるほど」と。私にはなかなか衝撃だった。
今でもカオス理論というやつを他人様に説明することはできないが、根っこのところでは「掴んだ」と思っている。(^O^)
で、もう1つ印象に残っているのが、量子力学の話。
ミクロな世界では日常生活の常識からすれば不思議に見える現象が起こる。そしてそれに対しての解釈/説明はいろいろ考えられている。(例えば......と言いたいところだけど、私には説明はできませんのであしからずm(_ _)m)
このあたりの説明の「不思議さ」をひっつかまえてスピリチュアルと結びつけたり、「科学の最前線でも、人間の意識が世界に与える影響について真剣に......」みたいなモノイイで無茶苦茶なものを肯定する材料にしちゃう向きもある。
しかしこれらの量子力学的な現象は、確かに不思議ではあるけれど、条件を同じにして実験すればいつも同じ結果が得られる。観測問題にしても、それは別に、観測をすれば突然予測不能な無茶苦茶な現象が起こったり、観測者の思念に影響された変な現象が起きるわけではない。観測すればするで、観測者の意志などとは関係なく、やはり「観測したときに起きるはずの現象」が同じように起きるだけのこと。つまり「不思議ではあるけれど、再現性がある」のだ。
ただ、どうしてそうなるかがよーわからんのでいくつかの「解釈」が出てきて、それはまだ決定打は出ていない。しかし現象としては「こうなる」ということはよくわかっている。
つまり量子力学の「不思議」は確かに日常生活の常識からすればかなり不思議だけども、それは極めて科学的な不思議であって、そこにスピリチュアルなり「お水さまありがとう」なりの非科学的な話の説明原理として持ち出される余地はないのだ。
「不思議な現象だが、100%コントロールできる現象」だという話を聞いたとき、量子力学という何とも不思議な呪文のベールに包まれたナニモノカが、一気に形を見せてくれたような気がした。
なんでこういう話をしたかというと、
PSJ渋谷研究所Xさんの「「原理がわかってないと科学的と言えない」という誤解と、「原理はわかってなくてもいい」の不十分さ」や
Interdisciplinaryさんの「「原理は解らなくても良い」事に気付いた時。統計の話」
を読んで、「ああそういえば私も......」と思ったから。(^O^)
きっとこの、「メカニズムがわかっているかどうか」と「科学的であるかどうか」という関係は、↑で書いた、量子力学について私が「なーるほど!」と思った体験と通じているのだろうと。
つまりまあ、こういう↓わけなんですよ。
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☆ 科学で割り切れないと真に思うなら、もっとも代表的な科学である量子力学によりどころを求めるのはおかしい。量子力学は通常の科学ですよ。現代物理学は量子力学の上に成立しているので、"科学で割り切れない"ことなら"量子力学でも割り切れない"のです。 ── 菊池誠。『ミクシィ』より。
☆ そもそもサイエンスとは、原理が不明でも効果の確認が科学的になされていればそれで良しとするものだ。 ── Webサイト「水商売ウォッチング」より。
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ここで天羽さんが端的に書いているように、「原理が不明でも効果の確認が科学的になされていればそれで良し」というのが科学であり、特に物理学のような「この世にある現象」を扱う学問にとってみれば、
【1】実際に現象を確認し、
【2】そのメカニズムについての解明を行う
のいずれもが「科学的」ということになるわけだ。
「どちらかが「科学的」であり、どちらかが「科学的」ではない」ということではない。
ところがこれは、両ブログ主さんも指摘するように、一般的にはそうは思われてないようだ。(実際、両ブログ主さんはいずれもそれに気付いたのは最近のことだと告白している)
つまり、一般には【2】(メカニズムの解明)こそが「科学的」だと思われているのだと。
しかし実はそうではない。
この2つは同等の立場にはないということはその通りだが、ここで優先されるのは【2】(メカニズムの解明)ではなくあくまでも【1】(現象の確認)[=その現象が実際の存在すること]だ。
もちろん演繹的な方法で【2】から【1】へと向かう順序はあるけれど、もしも【1】(現象の確認)によってそんな現象は「ない」ということになれば、【2】(メカニズムの解明)は何の役にも立たない。つまり「現象の存在」あっての「メカニズム」だと。
これが一般には「科学というものは、メカニズムの解明である」のみと思われているから、いろんな悲劇が起こる。(^O^)
きっとこれが、「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」の正体なのだ。
「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」なんていうのは科学の側からすればあまりに当たり前のことだ。科学というのは適用範囲を極めて小さく絞っているからこそこれだけ厳密な体系を作れているわけで、
「科学が全てじゃない」
なんていう指摘は、
「万能包丁では将棋はさせない」
なんて言われているようなもんで、「はあ、そうですけど、それが何か?」という脱力感を感じざるを得ない。
で、こういう指摘をする側は科学を【2】と捉えているから、
「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」
という指摘は、実は
「科学で何もかものメカニズムが解明できるわけではない」
という意味で使っていることが多いように思う。
そりゃ確かにその通りだから、本人も正しいことを言っている気になるし、それを言うことで本来主張したい「非科学的なことを信じて何が悪い?」も正しいような気になってしまう。
こうなってしまうと本質が全く見えなくなってしまう。
だから彼らは、「科学」が、本当は何を指摘しているかが余計にわからなくなるのだ。
水伝のことを考えてみる。
ここでビリーバーは、まず【1】(現象の確認)を受け入れてしまった。そして【2】(メカニズムの解明)までひとっ飛びに跳んでしまう。
ところが科学側は、まず【1】(現象の確認)について、「そりゃないよ」と指摘した。
ところが科学とは【2】(メカニズムの解明)のことだと考えているビリーバーは、科学側の指摘を、彼らが考えているメカニズム(言葉の波動)についての非難だと受け取った。
つまり、科学側が「そんな解釈は科学的ではないので、受け入れられない」と言っているのだと。(ほんとは、「そんな現象はありません」[⇒だからその解釈をするのも無意味です]なんだけど)
で、出てくる言葉が
「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」
だったと。つまりこれは、最初の【1】(現象の確認)について受け入れるかどうかの部分での齟齬だったわけだ。
【1】(現象の確認)がなければ【2】(メカニズムの解明)は無意味、というのが科学的立場であり、【1】(現象の確認)がなくても【2】(メカニズムの解明)があれば(気に入れば)OKとするのがビリーバーだった、ということじゃなかろうか。
これは血液型性格判断も同じこと。
ABOFANあたりを見ていればよくわかる(いやまあ、これを「典型」にして挙げると他のビリーバーが気の毒な気もするけれど)が、糖鎖がどうだとか、【2】(メカニズムの解明)ばかりを議論し(た気になっ)て、「科学的」であるように思い込んでいる。
#ABOFANは最近は誰かから「統計的に有意」という言質を取ることが「科学的議論」であると思ってる模様。
しかし根本的なところで【1】(現象の確認)がない(=血液型と性格に関係が認められない)ので、どれだけ【2】(メカニズムの解明)をやっても無意味。これが科学的な判断ということになる。
考えてみれば、私も昔はニセ科学など信じがちだったように思う。
しかし幸いにも?私の周りにいた理系の研究者たちのおかげで、正気を保つことができたのだと思う。
菊池さんもそうだけど、学生時代の友人のOT氏、HY氏、NM氏あたりには根本的な部分での「科学とは」みたいなのを教えてもらったと思う。
特にOT君が言った、
「徒花は美しく見えるもんや」
「しかし王道の奥深さに比べれば、やっぱり徒花は徒花でしかない」
というような言葉は、かなり大きな影響を受けた。
確かこれを聞いたのは、銭湯の中だったかなあ。(^O^)
たくさんの友人に感謝だ。
まとまりのない話で申し訳ない。
突然食いたくなったものリスト:
- フルーチェ・イチゴ
本日のBGM:
Aw Giv Me Air /FLOWER TRAVELLIN'BAND
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今日は。
メカニズムが解明されるべきなのか、という観点って、とても重要なんですよね。私もつい最近まで、そこら辺の論理が解っていませんでした。
ところで、こちらのエントリーにはてブがついてて、「信仰告白」とか「別に科学的じゃなくてもいいや。」というコメントがあって、ガクッときたのでした。一体、どこをどう読んだらそんな感想になるのだか…。
読みました。これ↓ですね。あらら、★までついている。
「逆に信仰告白みたいに読めてしまうのはオレだけ?科学的であることってそんなに重要なんだ。オレは人が生きていくために役立つなら、別に科学的じゃなくてもいいや。」
この投げやりな言葉にはがっかりです……と、某大先生なら言うでしょうか。(^O^)
自分の文章は判らないものですから、ほう、そう見えるのかと驚きました。確かに最後あたりの友人に感謝(^O^)の件りはそう見えるのかもしれないです。書き方は考えないとなあ。きっとこれ↓がマズかったんでしょう。(^^;
「しかし幸いにも?私の周りにいた理系の研究者たちのおかげで、正気を保つことができたのだと思う。」
ただ、このはてブコメントをつけてくれた人は、世の中に「科学的である」人と「科学的でない」人しかいないと考えていそうなところが凄いかなあ、とは思ったり。そしてこの2つが等価であると思ってそうなフシも感じました。恐らく「科学的である」ということは人間の素の状態としては不自然で、なんらかの訓練(努力)をしてあえて獲得するものなんですよね。
当然、「科学的である」「科学的でない」というのは1人の人間の中で普通に共存するものであって、もし人に対して使うのなら、「科学的素養を持っている/いない」くらいの表現が適切なのだと思うんですよね。そういう考え方を身につけている、というくらい。「この人は科学的/非科学的」なんて分け方ができるわけがない。
だからどうしたって「信仰」にはなりようがないんですが、もしそれを理解していない人から見て「信仰告白」のように見える書き方をしてしまったのだとしたら、そりゃマズかったかなあ、と思います。でもどうしたらそう見えないようになるのかはあまりよくわかっていません。
まあこの方は、
「人が生きていくために役立つなら、別に科学的じゃなくてもいい」
とおっしゃっているので、逆にもし「科学的である」ことが人が生きていくために役立つとわかれば科学的な素養を身につけることもやぶさかではないということなんでしょう。訓練や努力が必要なものですから、そういう基準で科学的な素養を身につけるかどうかを選択する人がいても不思議じゃないかもしれません。
(だから本当は、「科学的である」ことが役に立たず「科学的でない」ことこそが役に立つという信念の根拠を聞いてみたいです)
どうもです。TB、うまくいかないっすねえ。うちの問題かも。
あっちのコメント欄で紹介されたASIOSのFAQでも、〈第一段階は「現象の確認」です〉とされていて、うんうん、とか思っていたところだったので、ナイスタイミングな感じであります。
ASIOS FAQの9⇒ http://www.asios.org/faq.html#q09
信仰告白かぁ。文章の構造のせいかな、と思ったら、すでにそう指摘している方がおいででした(spiklenci-slastiさん)。で、「後で私の考えをまとめます」だそうなので、刮目して待とう(^^)
「信仰告白」って言ってしまった者です。
一応まとめましたが、つたないエントリで申し訳ありません。
>「科学的である」ことが役に立たず「科学的でない」ことこそが役に立つという信念の根拠
ああ、そういう意図ではないです。
単に、科学的であることが役に立つこともあり、そうでないこともある、というだけのことです。
深読みさせてしまったら申し訳ございません。
>ajtptwtptjaさん
こんにちは。
まとめていただいたエントリの方は、後ほどまたコメントさせていただきます。
>単に、科学的であることが役に立つこともあり、そうでないこともある、というだけのことです。
とすれば、別に私と認識が違っているようには思えないです。
そういうことだと思います。
で、科学的であることが役に立つ時は科学的でいましょうよ、そのときはちゃんとした科学観を持ってね、というのが私の意図です。
(このエントリではそれをちゃんと持つことができて私は幸運だったという話と、それを徐々に獲得する、そのきっかけになるいくつかの体験を書いたのでした。いや、実際にちゃんと持てているかどうかは別として、少なくともそれが大事だとは思えるようになったという、ね)
エントリをざっと見せていただいた限り、例のコメントは「最近多いニセ科学エントリ全般」についての感想も込みのようですから、これ以上言葉を継ぐ必要はないのかな。