というわけで、京都に行きましたよ。
もちろん河鍋暁斎を見に。
京都国立博物館での「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋-」と京都国際マンガミュージアムでの「明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」を両方ご堪能。\(^O^)/
両方、素晴らしいものだった。
特に京博の方は質、量共に圧倒的。
肉筆に限ってこれだけの規模のものは空前にして絶後だという。
うむ。
これからもないだろう、と。
確かにそう思わせるほどのものだった。
国際マンガミュージアムは建物も面白かった。
京都国立博物館がいかにもの近代建築であるのに対し、こちらは昔の小学校を改装・増築したもので、両者とも建築物を鑑賞するだけでも楽しい。
(京都国立博物館を設計した片山東熊[かたやまとうくま]は、実は暁斎の弟子となった建築家コンドルの一番弟子だったりする。因縁だといえば言えなくもない。(^O^))

京都国立博物館
マンガミュージアムの方の写真は撮るの忘れた。
1日1000円のパーキングに駐めて、市内はキックボードで移動。(^O^)
ほんとはQ氏と行くはずだったのだが、前の日に高熱を出して断念。お前は小学生かと。(^O^)
ま、1人だと小回りがきく。

キックボードは結構ガタが来てた。新しいのが欲しい。
以下、備忘録。
- 暁斎は歌川国芳に学んだ後、狩野派に学ぶ。
- 狩野派では「洞郁(とういく)」という名前をもらっている。
- 狩野派に入るには養子にならないといけない。しかし養父よりも絵がうますぎて離縁されたという説あり。
- 狩野派は江戸時代の日本絵画界のメインストリーム。名門なりの縛りがあった。⇒浮世絵を描いてはいけない、など。
- しかし時代が江戸から明治に変わり、狩野派に体制側御用達絵師の特権はなくなった。狩野派のみを学んできた兄弟弟子はみな生活に困窮するようになる。対して浮世絵を学び、狩野派での修業の合間に隠れて他の技法も修得していた暁斎(当時は狂斎)はその技術を生かして狩野派以外の絵画も描き、絵師として十分食べていけた。
- もしも江戸がずっと続いていれば、おそらく暁斎も狩野派の技巧派として生きていったのではないか。
- 現に晩年には師匠に狩野派を嗣いでくれと頼まれ、引き受けている。しかしすぐ死去。
- 暁斎は狩野派ではない様々な絵画を描くことを「心ならずも鳥羽僧正の狂画にならひて」と表現している。鳥羽僧正といえば鳥獣戯画の作者で、暁斎もまさにこの流れの絵画を数多く残している。もちろん狩野派絵画ではない。(^O^)
- 江戸末期から明治にかけて武士から商人へと社会の力関係が変わった。暁斎も商人などの求めに応じて様々な絵を描いた。
- 暁斎は自らを「画工」「売画」などと表現しているが、これは卑下ではなく、まさにそれだけの技術を持っていることの自信の現れである。
- それを象徴しているのは「狂斎」と、「狂」を名乗っているところ。中庸ではなく、一方に極端に偏る「狂」こそが芸術を作る、という意識は18世紀中国に生まれ、18世紀の半ばには京都に伝わった。それが19世紀に江戸の北斎に受け継がれ、暁斎へと続いている。
- これと「売るために絵を描いて何が悪い」という意識はつながっているらしい。このあたり聞き逃した。しかし確かに北斎も「画狂老人」の号を用いている。
- 暁斎の浮世絵の師匠・歌川国芳は歌川豊国の弟子であるが、彼は豊国よりも北斎を尊敬していた。それが暁斎にも影響を与えている。
- 「待賈(たいか)」というのも同じような言葉で、「買い手を待つ」という意味。「待賈堂」とも号した池大雅もまたこのような意識を持っていた。
- 池大雅の「大雅」の号そのものが、「待賈」から来ている。
- 暁斎は豪放磊落というイメージがあるかもしれないが、非常に小心な人だった。
- 暁斎が狩野派以外の絵を描くときは酒が入っているとき。しらふの時は狩野派に対して後ろめたさを感じ、ふざけた絵は描けなかった。
- だから絵を見るとだいたい何合の酒が入っているか判る(河鍋楠美さん)
- 酒が入るといろいろやってしまう。逮捕されるきっかけとなった絵も酒の席で興に任せて描いた絵。
- この筆禍事件で1年間牢獄で過ごすことになるが、そのきっかけとなった絵はどういったものかわかっていない。
- おそらく江戸時代にあっては同じことをやっても捕まることはなかっただろう。それは江戸時代には絵師は所詮「たかが絵師」であったから。しかし明治はそういう時代ではなくなっていた。
- 新しい支配者となった薩長にとって「江戸」(東京以前)は過去の遺物でしかなく、文化としての興味は一切なかった。
- 「酒を飲んで絵を描く」ことが(あるいは別のことであっても)悪いと感じるようになったのが近代。
- 牢から出た狂斎は「暁斎」と改名する。明治4年のこと。落款で明治3年以前か以降かが判る。(牢に入っていたのは明治3年から4年にかけて)
- 暁斎は本当に絵が好きで、牢にいたときですら紙と筆を借りて毎日絵を描いていた。
- 暁斎は明治3年から死ぬまで、毎日絵日記を残している。
- 狩野派の技術しか持っていない他の弟子に比べて暁斎はその高い技術を生かして様々な絵を描き、経済的には困ることはなかった。ある日人力車に揺られていると兄弟子がうらぶれて歩いている姿を見かける。「どうしたんですか?」と声をかけると、食うのも困るくらいになっているのだという。暁斎はその場で車を兄弟子に譲り、次の日から毎日弁当を届けさせたという。
- 明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品した作品がその博覧会での最高賞を授賞した。暁斎はこの絵に100円の値をつけた。会場の係員はそんなべらぼうなと非難したそうだが、榮太樓(和菓子屋)の主人が言い値で買ったのだそうな。(←これは京博の展示絵画の解説に書いてある) しかしほんとに売れてしまってびっくりしたのは暁斎らしい。いや、50円でいいのですので......と言ったらしい。すると榮太樓主人、「100円でないと買わない」と。(^O^) 結局もらった金は全部返してしまったのだそうだ。
- 狩野派の絵師としてしらふの時に書いた絵は「謹画」などと書いたりしている。
- しかし「謹画」は大抵面白くない。
- 「家では書いてはいけないという家訓がある」(楠美さん)←どういうことだろう?
- 「伊藤若冲の絵は茶席では絶対に掛けてはいけなかった」(狩野博幸さん)←なぜだろう?
- 楠美さんはやっぱりチャキチャキの江戸っ子。批評家⇒ヒショウカ、作品⇒サクシン、是非⇒ゼシ。
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突然食いたくなったものリスト:
本日のBGM:
原宿キッス /田原俊彦
こんばんは。
暁斎展、先週末にちょっと無理して行ってきました。
マンガミュージアムの展覧会も見てきました。何れも良かったです。
妖怪画や動物戯画のイメージが強かったのですが、美人画や花鳥画なども素晴らしかったですし、特に歌舞伎幕の迫力が凄かったです。
今度は河鍋暁斎記念美術館に行ってみたいと思います。
マンガミュージアム、建物も面白いですね。
京都には鉄筋コンクリート造の立派な戦前の学校建築が随分残っているのです。その中には廃校などで使われていない校舎も多いのですが、このように壊されずに有効活用されるのは喜ばしいことだと思います。
こんにちは。
私も妖怪画と、あと、ドクロ画から入りました。
あのドクロがまたいいんですよ。
初めて見たのは大英博物館だったかも。
歌舞伎の幕は凄い迫力でしたね。解説にもありましたが、あの大きさのものを書くと実力があからさまに出るのでしょう。
記念美術館はちゃんと地図を見ていかないと迷っちゃうかもしれません。気をつけて下さいね。
漫画ミュージアムの建物も味がありました。ああいう使い方はとてもいいですよね。暖かかったです。
ああいう建物を見るといつも豊郷小学校を思い出して悲しくなったりするんですが。(^^;;
>豊郷小学校
あの件は結局、危険→取り壊し→新築というレールが、実は彼等の標榜する「子供のため」なんかじゃなかったという事が顕わになったかなり不快な事件でした。
あそこは首長サンが余りにアレだったのですが、一般的に「子供の~」はかなり強力な反論封じで、私の印象では今でもあちこちでまかり通っています。
ああいった形で残されることはかなり不幸だと思います。建物は元に近い形で使われるのが一番降伏だと思うのです。
とはいえ、保存運動のほとんどは各地で連戦連敗なので、取り敢えず壊されなかっただけでも良かったと思っています。
新しい建築物を造ることが「もうけ」につながる構造は、頭の痛い問題ですよね。それによって食っている人がいる、あるいはそれが町の産業の大半だったりすれば、古い建物は「改築候補」でしかないわけですから。
でも、きっとそれじゃダメなんですよねえ。
私が通っていた高校の校舎は昭和7年の建築でとても面白いものでしたが、結局10年ほど前に建て替えられました。
どちらが子供にいいのか……これも本当に悩ましいところです。
ですから「取り敢えず壊されなかっただけでも良かったと思っています」という言葉は、重いなあ、と思います。