ニセ科学と大衆(何か見逃してる?)
何か最近多いけども、またニセ科学の話。かなりメタ。
先日、東京である大学の先生にお会いした。
実はこの先生とは初めてではなく、以前、懇親会で2度ほど雑談をさせていただいたことがある。
その雑談の中で印象に残っている話。
その先生がシンポジウムか何かで、数人のパネリストと話をした時のこと。
その先生はその分野の専門家として呼ばれて議論に参加した(つまり、それぞれ別の専門分野がある人々を集めた企画)わけだが、その中である参加者が先生に向かって
「その点については先生とは全然意見が合わないんですよね(笑)」
というようなことを言ったのだと。「その点」というのは先生の専門分野の話。
これについて先生は、私にこう言った。
「失礼な話だよな。こっちは命がけで一生かけて研究してんだ。何もわかっちゃいない人間が、さも対等であり、見解の相違に過ぎないかのように言う。違うんだよ。私は物知りであなたは知らないの。なのにあなたは判ったようなことを言っているんだよ......と言ったんだけどね」
これは私にはなかなか示唆に富む印象的な話だった。今回お会いした時にその話をしてみると、先生もこの話は覚えていて、やっぱり
「失礼な奴だよな」
と笑っていた。
これを「知識人の傲慢」だとか、「知の独占」(?)だとか、「専門バカでは見えないことがある」だとか、「素人だからこそわかることがある」だとか言って、参加者側の失礼ではなく先生側のモノイイを非難しちゃうような風潮が、今はあるように思える。
先生の仰るように、専門家とそうでない人の間には、かけている情熱や覚悟やリソースという面で圧倒的な差がある。
にもかかわらず、その人が積み上げてきたものへの敬意とか、かけたリソースへの想像力といったらいいのか、そういうものが全くない。知識人は知識人として、単にそこにできあがってると思ってる。
そういうものは「わたし」という個人には無力であり、「わたし」の思いつきはそんなリソースをかけた人の結論以上の価値があるのだと。
で、これで真っ先に思い出してしまうのはやっぱりオルテガのジェットストリームアタック......ではなく(^^;、『大衆の反逆』だよなあ、と。
私は要約は苦手なので、この本から抜き出した「名言」を紹介しておく。それでオルテガのいう「大衆」とは何かがわかっていただければありがたいけども。
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☆ 一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して多くの、しかも高度の要求を課す人のことであることを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。 ☆ 今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。 ☆ なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。努力せずに自分の頭の中に見いだしうることを尊重せず、自分以上にあるもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。 ☆ 人類という軍隊はもはや隊長ばかりで構成されている。 ── オルテガ『大衆の反逆』より。
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ここまで言ってしまっていいのかどうかわからないが、まあ文章の流れなので言ってしまおう。
実はこの「大衆」(無根拠に自らを「高貴なる人」と同様の立場にいると考える人)こそがニセ科学を担う人たちと重なるのではないかと。
自分/他人のちょっとした思いつきと、これまで人が膨大なリソースをかけて積み上げてきたもの(知識/物/人)とを疑問もなく同列に扱ってしまえる姿は、(オルテガの言うところの)「大衆」の典型的な行動パターンだ。
例えば彼らが簡単に口に出してしまう「科学でわからないこともある」「科学が絶対ではない」という言葉には、「科学」に対する敬意どころか理解そのものがないし、しかもそれで「よし」と思っている。
「権威」を現象としか理解できず、その由来について思い描くほどの想像力がない。その想像力を発揮しようという意志すらない。
結局、「自分はこれでいいのだ」「気持ちいいのだから、それでいいじゃん」という現状肯定の知的怠慢こそが、ニセ科学を支えているのだと思う。
言い過ぎだろうか?
正直、こういう考えはこれまで何度も浮かんではいたのだけれど、あまりに言い過ぎではないかという気もして、あるいはあまりにミもフタもないような気がして、なかなか言語化できずにいた。
しかし先生の
「失礼な奴だよな」
という言葉で、やっぱり言語化しておこうと思った。
そう、「失礼」なんだよ。(^O^)
恐らく大衆⇒失礼⇒二流は全部つながっている。
「ニセ科学商法」というのは、二流が一流をダシにして三流を食い物にするビジネスモデルだ。
つまりニセ科学の発生は大衆社会の必然でもある、と。
言い過ぎだろうか? 何か見逃してるか......?
突然食いたくなったものリスト:
- 芋きんつば
本日のBGM:
Here It Comes /EZO
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>つまりニセ科学の発生は大衆社会の必然でもある、と。
まさにその通りだと思います。
いえ、その通りです。
積み上げられた知識を必要とせずに(労力をかけずに)理解したつもりになれて、
尚且つそれが大衆の欲望と合致する。
この条件を満たす偽科学が急激に広まるわけです。
もう宗教ですね。
マイナスイオン教、ゲーム脳教ですよ。
神様から科学にとって代わっただけです。
科学的考察はまったくされず、ただ信じるか信じないかだけという点では同質ですよ。
いや、本人は科学的考察がなされたと思っているだけ性質が悪いかもしれません。
そして宗教はなくなっていない。
偽科学もなくならないのでしょうか。
こんにちは。
私自身はこれらニセ科学が宗教と同質であるとは思っていません。
宗教にしろ科学にしろ、人の手ではどうしようも変えられない、個人としては受け入れたくないような苦い部分もあって、でもそれをひっくるめて受け入れるしかないわけですが、マイナスイオンにしてもゲーム脳にしても、
「自分が信じたいものを信じたいにように信じる」
という事態になっていると思います。
その意味で、これらを宗教と同列にするのは、きっと宗教に失礼なんですよ。(^O^)