『水からの伝言』の2つの側面
『水からの伝言』の話は何回かしたけども、この話についてちょっと自分の中での整理をかねてウダウダと書いておく。(何か変か? (^^; )
まあだいたい出尽くした話だとは思うけども。
↓以前にここで『水からの伝言』について言及した記事。
現代の優生学
http://taizo3.net/hietaro2/2006/09/post-409.php
マイナス水素イオン......。_| ̄|○
http://taizo3.net/hietaro2/2006/12/post-496.php
トンデモやニセ科学のこと
http://taizo3.net/hietaro/2007/11/post-86.php
『水からの伝言』には2つの段階がある。
片方を「現象編」、もう一方を「解釈編」とでもしておこう。枝葉末節を考えれば、これ以外にも「行動編」(^O^)とか、いろいろあるだろうけど、話としてはだいたいこの2つだろう。
最初の現象編とは、この話のベースになる、物理現象の話。
「ありがとう」「ばかやろう」という言葉を書いた紙を水に「見せ」ると、「ありがとう」の方の水は綺麗な結晶を結び、「ばかやろう」の方は結晶を結ばない(ルックス的にはかなり汚い感じ)、というもの。
解釈編は、現象編をもとに、これを解釈する段階。
「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない
ということから、
「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」
といった解釈が導き出される(「水伝授業」もこういう解釈に基づいている)。
つまり、まず現象編で物理現象を語り、それを解釈編で読み解く、という段階があると。
まあ段階があるとはいえ、全く独立しているわけではなく、解釈編は現象編がないことには存立し得ない。
一般に『水からの伝言』をめぐる物語を信じている人たちは解釈編の方に魅力を感じているのだと思う。
本来、解釈編は現象編があって初めて成り立つのに、これだけが独立して支持されていると。
ここで書いたように『水からの伝言』に2つの側面があるとすれば、『水からの伝言』に向けられる批判は、そのどちらに向けられたものかを見分ける必要がある。
で、「科学」の面から批判されるのは物理現象を語る現象編ということになる。
言葉が水などの性質に影響を与えるようなことがあれば、人類がこれまで積み上げてきた経験は、かなりの部分、否定されることになってしまう。
(これまでの科学の知見は物理現象に言葉の影響を織り込んでいないにもかかわらず、何ら矛盾が出ていない。にもかかわらず、そんな現象があるということになれば、それら[=水伝を織り込まない人類のこれまでの経験]の多くを否定しなくてはいけなくなる)
だからこの物理世界に住んでいる限り、現象編はどうしようもなく否定される。(「それでもいいじゃん」と言ってしまう人のメンタリティについてはここに書いた)
「科学」が否定するのはここまでだ。
しかし結局、現象編が否定されてしまえば、それを土台としている解釈編もまた、自動的にアウトとなってしまう、
だから間接的ではあるにしろ、「科学」は結果的に解釈編をも否定したことになる。
実際、「水伝ビリーバー」の反論の少なからぬ割合を占める「科学が絶対じゃない」みたいな反論は、まさに直接「科学」そのものへと向けられている。
もしも「科学」への反論がしたいのであれば、「科学が絶対じゃない」ではなく、「いや、本当にそういう現象は起きるんだよ」(=「現象編は正しい」)となるべきなんだけども、そういう反応にはいかないようだ。
では解釈編に直接向けられる批判はないのかといえば、そうでもない。
ただ、現象編と違って解釈編はあまりにも恣意的な要素が強いので「まあ個々人の責任で解釈すればいいけど、人に押しつけるならちょっとは説得力持たせないとね」くらいにとどまってしまい、あまり大きな声にはなっていないように思える。
だいたい、もし仮に現象編の
「ありがとう」→ 結晶を結ぶ
「ばかやろう」→ 結晶を結ばない
が本当にあったとして、そこから
「水はポジティブな言葉にポジティブな反応をし、ネガティブな言葉にネガティブな反応をする」
「よい言葉をみんなが使えば、それで世の中がよくなる」
「水がいい言葉に反応するのだから、60%が水分でできている私たちの体もいい言葉に反応するはず」
なんて解釈が必然的に導き出せるのかといえば、全くそんなことはない。
例えば
「ありがとう」との言葉を見せても水が結晶を結ぶことは少ない(50のシャーレのうち数個)。まして普通の(何もしない)状態ならかなりのレアケースになる。
通常、水に関わる道具や機械は「ありがとう」で水に生じる(生じてしまう)物理変化を織り込まずに設計されている。にもかかわらず不用意に水に「ありがとう」なんて言葉をかけて何らかの物理変化が起きてしまうと、規格外の水を使われた機械は故障してしまうかもしれない。そういう機械の中には命にかかわる機械もあるはずだ(医療機器とか)。あるいは私たちの体の60%を占める水が変化すれば体に何らかの変調をきたすと考えるのが妥当だけども、それが万人にとって「いい方向」にだけ変化するなんてことの方が不自然で、アレルギー症状などで命の危険に晒される人も出るかもしれない(「ありがとう」アレルギー(^O^))。
だから地球上の命を守るために、皆さん、『ありがとう』なんてヤッカイな言葉は金輪際使わないようにしましょう。
とか、
世の中が単純な「いい/悪い」で割り切れるようなものではないってことは今なら子供でも知ってる。それをそういう二分法でしか解釈できない水は、社会の敵だ。なるべく排除しよう。
なんて解釈も、まあ理屈上は可能なわけだ。
ところがこういう解釈を採る水伝ビリーバーはいない。
いろんな「解釈」が成り立ち得る中で、ある解釈だけを恣意的に選び出しているのが『水からの伝言』だということになる。
つまり、水伝の本質は現象編ではなく解釈編であると。
繰り返すが、解釈編は現象編から論理的に導き出せる結論ではなく、かなり恣意的な、いってみれば「信じたい」結論でしかない。
だから現象編から解釈編へとつながる論理的必然性を問題にしても、あまり意味はないのだろう。そういう経路を恣意的に選んでるのだから(意識しているかどうかは別として)、もともと論理的ではないわけで。
だから現象編から解釈編へとつながる経路や解釈編の内容そのものに対しては、「科学」は直接的には批判のボキャブラリーを持たない。
(ってことで、解釈編に立脚している「科学が全てじゃない」とか「未科学だ」なんていう反論が科学に対して「直接」なされるのは無意味だ。科学からの批判はあくまでも現象編を経由した上での間接批判にすぎないのだから)
「善/悪、美/醜の単純な二分法」「価値判断の根拠を水に求めてしまうこと」「見かけで中身を決めつけること」など、解釈編に内包される問題点は少なくない。
解釈編のチープな愚かさを直接批判するべきは、「倫理」「文学」「宗教」「芸術」とかいう分野なんだろうと思う。
ちゃんと批判すべき勢力が批判すべきなのだ。
もちろん、そういう方面からの批判はちゃんと出ているよ。
しかし、特に「芸術」や「宗教」なんて方面の方がその表面的な「耳あたりの良さ」に惑わされて肯定してしまっているのを見るのは悲しい限り。本来、自分たちの立ち位置とは対極にあるもののはずなんだ、水伝は。
「芸術」や「宗教」はそんなに単純じゃないでしょう。_| ̄|○
だからこういう話を聞くと、悲しくなる。
昔、呉智英が、どこかの寺の坊さんが、見学に来た学生たちに仏教がどれだけ民主主義に合致しているかを説いていたというエピソードを挙げて批判していたけども、それと一緒だわ。
水がどういう結晶を結ぼうと、もし仮に全然結晶を結ばないようなことであっても、あるいはそれが民主主義に反していようと、宗教的に正しいことは正しいのだと言い切るべきなのに、何を日和っておるのかと。
宗教的真理を水に教えてもらわないかんのなら、別に教えなんかいらんぞ。
だから実は、『水からの伝言』ビリーバーが批判に対して反論するには、「科学が全てじゃない」だとか「本当にそういう現象はある」だとかという、現象編批判への反論だけでは全く不十分で、解釈編で恣意的に行った解釈が妥当であることを主張しないといけない。前者が「科学」に対する反論で、後者が「倫理」「文学」「宗教」「芸術」に対する反論になる。
物理現象から「意味」を抽出しようとすると、どれはどうしたって恣意的な解釈にならざるを得ないわけで、そこには解釈する人自身の世界観や人格なんてものが鏡のように映し出されるんだよね。
だから『水からの伝言』批判をされた側は、自分の人格や世界の捉え方そのものを否定されたような気分になるんだろうな。
こういう2つの側面の話で見ると、「では現象編を排除した水伝はニセ科学ではない」的なアホな意見を言い出す人が出てくるが、結局解釈編は現象編なくしては存立できないので、2つを純粋に分けようとするのは単なる言葉の遊び。
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しかし近代科学の近代科学たるゆえんは、本質論的・原因論的問い方、"What"や"Why"の問い方を捨て、"How"という問い方を意識的に採用したことによって成立した。「点」や「線」や「面」を本質論的・原因論的に究明するというプログラムは、元々、近代科学には組みこまれていないのである。本質や原因の認識の「断念」こそが近代科学を成功に導いたのである。
── 山川偉也『ゼノン 4つの逆理 ── アキレスはなぜ亀に追いつけないか ── 』より。
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さっきapj氏のブログを見たら、同じようなことを書いてる人のブログを紹介していた。ちゃんと読んでないんだけど。
ま、皆さん同じようなことを考えるってことで。
突然食いたくなったものリスト:
- 春駒のうなぎのにぎり
本日のBGM:
Thinking of You /泰葉
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ニセ科学「水からの伝言」を道徳の授業で扱ってみよう第二弾。 水伝道徳授業[1時限目・情報リテラシー]の続き。 一応、小学校高学年くらいが対象で... 続きを読む
正直あまり触れたくないのだが、論宅氏のエントリ「世界論と真理観についての相対主義」 について述べたい。事情は最後に触れる。 先日、私は「認識と... 続きを読む



解釈篇自体がお話であって、事実でない訳で。
教師の訓話はそんなもんでしょう。
というか、解釈篇自体が訓話以前のポエムなんですが
訓話は「皆さん良い言葉を使いましょう」ってことで
やっぱり釣られたか。
ふまは来なくていいよ。
>poohさんへ
コメントが受け付けられないようなので、こちらに書いておきます。
こんにちは。
好意的に採り上げて下さり、ありがとうございます。
私も頭の整理の段階で、ちょっと面はゆいです。
おじゃまします。
すいません。このコメント欄の上に来ているひと向けのトラップがあるので、コメントが入らないこともあります。ごめんなさい。
こう云ったエントリは、なんと云うか、ありがたいです。
ぼくなんかの思考や考察はどうしてもまっすぐ縦に向かってしまうので、こうやって時折外側からの視点で書いていただけると、本人の客観視できない部分に光が当たってくれますし。
こんにちは。
私なんかはニセ科学批判に首を突っ込んだ当初から「水伝の道徳教育としての問題」という解釈編での批判をしてきましたし、ニセ科学問題を取り上げられた菊地先生とか多くの先生も言葉は少ないけど解釈編も取り上げられていると思います。むしろ、読み手の方の興味が現象編否定にばかり向くことで、読まれていないのかなと思います。
私の道徳教育論としての水伝否定は次のようなものです。
道徳・倫理というものの本質は社会の相互利害である。道徳教育とはどこかで「自らがされて嫌なことは他者にもしない」に結びつくものでなくてはならない。もちろんこの相互利害は個人間の相対(あいたい)関係にのみ限定されるものではない。いわゆる社会秩序が保たれる事で「自らがされて嫌なことはされないという社会」を構築するために、自らに直接被害の無い事でも社会的に起こることに対して「それは止めるべきだ」などの認識にも結びつかなくてはならない。問題は、「水が言葉を理解する」という虚偽の上に教える事よりも、そのような寓話から道徳の根底にある相互利害へのつながりが発生しにくい、あるいは発生し得ない事にある。
>poohさん
なるほど、確かにちょっとトラップに引っかかる表現が入っていたかもしれません。こちらこそ気を使わせてしまいまして。m(_ _)m
そう言っていただけると嬉しいです。
>技術開発者さん
こんにちは。
そうですよね。結局、「解釈編」(つまり水伝の本質)の奥に潜む凶悪さが、その見かけや、あるいは「現象編」のはっきりした誤りにばかりに目がいってしまって、浮き出て来づらいということがあると思います。
この話は寓話としてもかなり筋の悪いもので、「現象編」をどう判断しようと、三流物語であることは間違いないですね。本文にも書いたとおり、「倫理」「文学」「宗教」「芸術」などといったものの立ち位置からは対極にある。
ましてこれを(「いい言葉を使いましょうね」を言いたいがために)道徳教育に持ち出すことは、正直言って「エラーが出るのでエラーメッセージを消すパッチをあてました」的な思慮の浅さを感じます。
この話の奧にある反社会性が、恐らくご本人たちが主観的には積極的に支持しているであろう「共生」「共存」みたいな概念とも相容れないことに気づかないのかなあと思います。
はじめまして。
poohさんのところで紹介されていたのを拝読して、大変優れた論考だと感銘を受けましたので、こちらでも紹介させて戴きました。こういうふうに論のスタンダードを起こす作業は、貴重な言論の営みだと思います。
>黒猫亭さん
こんにちは。
何か、えらく褒めていただいて恐縮です。
私は庄内さんやGenさんの議論をちゃんと追っておらず、年末年始のブログの騒動というのも、間接的にしか(それこそ黒猫亭さんの記事などでしか)知りませんでした。
なので、それをも織り込んだと評価していただけるのは歯がゆく、光栄でもあります。
ありがとうございます。m(_ _)m
あと、実は私は黒猫亭さんとははじめましてではありません。
ごく最近に、某所でお話をさせていただいています。
恥ずかしいのでハンドルは書きませんが、はじめましてヅラするのも心苦しいので……。
http://taizo3.net/hietaro/2007/11/post-86.php
ここで引用した文章などで推し量っていただければありがたいです。
>ひえたろうさん
お返事が遅れました、いつもお返事を書こうと思ってリンクを辿ると明後日の方向に読み進んでしまっていたものですから(笑)。
それで、えーと、最近会話させて戴いた編集関係のブロガーの方と謂うと、心当たりが一人しかいないんですが、もしかしてその方ですか?(笑)
>黒猫亭さん
こんにちは。
いや、多分違うと思います。(^O^)
某所で、「文系/理系」のお話をさせていただきました。
あ、ひょっとしてオレを呼び捨てにしたシツレーな人ですか?←いや、やり返す機会を狙っていたので(笑)
…これでハズレだったら持ち玉がない…(笑)
(^^;
そうにゃ。
うそうそ。(^O^)
そうです。m(_ _)m
初めまして(では無いかも知れませんけれど)。
とても良い論考だと思ったので、私のブログでも、紹介させて頂きました。水伝を考察するにあたっての、有用な視座を提供して頂いたと感じます。
------
ちょっと本題からはずれます。
こちらでの、黒猫亭さんとひえたろうさんのやり取りについて、エントリーでも触れたのですが、書いた後で、余計な事をしてしまったかも、と思いました。申し訳ありません。
>黒猫亭さん、TAKESANさん
いろいろ混乱させて申し訳ありません。
いやあ、別に積極的に秘するつもりはないのです。
なんというか、小ッ恥ずかしいだけなので。(^^;
なので、気にしないで下さい。 >TAKESANさん(87.35%の方です)
ところで、私は未だに年末年始の騒動?というのを直接には追っていません。
皆さんの話で何となく予測もつくので……。
しかし
http://taizo3.net/hietaro/2008/02/49500.php
にも書いたのですが、勝手な印象として、水伝はどちらかといえば左翼……いや、環境系?の方々との親和性が高いような気がしています。あまり深く観察した結果ではないのですが。
これと江本氏の右的な思想?とはかなり齟齬があると思うのです。これをビリーバーの方々はどう整合性を保っているのか、少し興味があります。
>ひえたろうさん
右翼が国粋ヤクザで左翼が革命インテリの代名詞だったのは今は昔の物語で、政治系ブログの動向を見ると、生活寄り社民系が左翼で思想系観念系が右翼、そんな程度の雑駁な区分けになるようで、思想傾向は関係ないようです。
ネット言論に関しても、たとえば「日本人」という概念に対して加えられる主に外国からの攻撃に脊髄反射的に反応するのがウヨクで、消費者運動的な観点から国民の生活に即して政治を語るのがサヨク、そんな程度の位置附けになると思います。
一方、水伝の言霊思想的な呪術的側面から謂うと、実は環境系に見せ掛けながら非常にプリミティブな意味で右翼的な心性に訴えるところがあるような気もしますし、それが生活系のサヨク言論と「買ってはいけない」的な消費者運動的観点で繋がっている辺りが、思想的な理路の面でねじれているんじゃないかと思います。
>黒猫亭さん
ああなるほど。
こちらの「右翼/左翼」観が今では通用しないのですね。(^^;;
そういえば昔、kikulogで学生さんが
>左翼メディアは日本に結構ありますので。筆頭が聖教新聞社ですし。
> あと、左翼に関する発言ですが、私は間違っていないと申し上げます。聖教新聞を発行しているのは聖教新聞社であることに間違いはございません。そちらの認識不足では?そもそも、聖教新聞社は印刷を自己負担ではなく、朝日新聞などに委託して印刷していることをご存じないようですね。同じ左翼だからやることであり、右翼新聞社は左翼新聞社の印刷の下請けなど承りません。母体はSGIこと創価学会でありますが、こちらは親米のスタンスを取っている団体です。ハリウッドスターにも多くの学会員がいるようですし。さらに申し上げますと、日本における左翼というのは、反米よりも反日(親韓親中)に力を入れている団体です。なので、反米になることはないでしょう。
なんて発言をしてるのを読んでブッ飛んだことを思い出しました。
ああなるほど、言葉は生き物だ、と。(^^;
つまり今の学生さんくらいの世代にとって「左翼/非左翼(右翼?)」は、具体的ないち新聞社(朝日新聞)や特定の国(中国/韓国)にどういうスタンスを採るかによって決まるのだと。思想の中身以前に。
昔の「右翼/左翼」は見分け方が非常に明解で、それが新左翼が出てきて衰退して新右翼が出てきて、民族主義やら環境問題やらいろんな要素が入ってきてその線引きが曖昧になり、もはや「右翼/左翼」を分ける明解な指標はなくなってきた……なんていう流れと思っていたのですが、今は再びかなり明確な分け方が出てきたんだなあと、若者の智恵に感心しております。(もちろん皮肉)
となると、(そもそも分け方が思想上の違いに基づいているわけではないので)「右翼/左翼」的な視点で彼らの思想上の立ち位置を読み解こうとすると、ねじれて見えてしまうのは当たり前ってことですね。
彼らの立場に「整合性」がないように見えたのは、こちらの視点の問題だったということなんでしょうね。
>ひえたろうさん
元々「右翼・左翼」というターム自体が相対的なもので、左右の対称というその言葉自体は何も意味性を語らない対称性で括られる二分法ですよね。物凄く広い意味では保守と革新という意味でしょうけれど、たとえばkojitakenさんのご意見によれば、新保守主義的な政治が支配的な世情においては、従来の保守中道が左派ということになる。支配的政治思想が右傾化している世の中においては、評価軸が右側にズレるのは当たり前だということになるわけです(笑)。
ではオーセンティックな意味での右翼・左翼というのは何だという話になると、これは個々の領域における政治運動の歴史性において定義附けて行く必要がある。つまり、引用符附きで語られるようなタームとしての「左翼」とか「新左翼」とか「サヨク」という扱い方になるわけで、そのように括ってはじめて右翼との相対性を考慮せずに独立の政治的立場としての「左翼」を切り出し得るということになるわけです。
これは右翼の側でも同じことで、心情右翼だの思想右翼だの任侠右翼だの、右翼的政治運動の歴史性の中に個々の要素群がプロットされているわけで、左右の対象における相対的意味性というのは、個々の時代性においてすでに決定済みの基準という扱いになるわけですね。
こういう歴史性の観点がないと、昔の右翼が主張していたことを今の左翼が主張しているのは矛盾しているんじゃないかという話になりがちですが、個々の時代性においては政治的立場の左右の規定というのはその時々の政治的局面における相対基準でしかないわけです。それが個々の政治的局面の事情において保守的であるか革新的であるかという一般概念的な評価軸と、歴史性の基準において従来の左翼運動や右翼運動と人的・組織的・意味的連続性を持っているか、そういう複数の評価軸の総合で判断される筋合いのものだと思います。
水伝の話に戻りますと、たとえば環境系の話が消費者運動や教育運動のような「カツドウ」に結び附くとすれば、それは左翼的な受け取り方だという話になりますが、たとえば言霊思想とか祈りの呪術性、ケガレと祓えの問題という話になれば、国家神道や「美しい日本の私」的な右翼性との相性もあるわけですね。
この意味でも水伝には多分にヌエ的側面があるわけで、元々右翼・左翼という分類において特定の社会的事象との関連を考えると、主に歴史性の文脈で結び附いたという無根拠性があるわけですが、それでも何某かの相性の要素はあるわけです。「買ってはいけない」や「複合汚染」式のニセ科学というのは、不買運動や企業糾弾という具体的な「カツドウ」として展開しやすいですから左翼系との相性は良いですよね。こういうふうに一見非政治的な事象が特定の政治的立場と結び附くのは、非常に下世話で便宜的な具体論の根拠しかなかったりするわけです。
ところが、水伝というのは呪術を科学の意匠で飾り立てたもので、非科学のポエムだと認めていながら科学的実証に未練を残していたり、提唱者の江本氏の混濁した物の考え方の故に本来混ぜてはいけないものが未整理な儘にごた混ぜになっている。
ひえたろうさんが「水伝は左翼的な方々と親和性が高い」と仰るのは、たとえば琵琶湖の水質浄化に象徴される環境系との親和性や「水伝授業」という教育活動との関連などの要素の総合としての印象だと思いますが、右翼サイドからアプローチしても別段矛盾はないわけで、事実において提唱者とビリーバーの政治的立場に齟齬があっても、それは政治の局面にアリガチな便宜性の故であって、本質的には剰り不自然ではないという気がします。
というか、前述の通りオレは水伝の元々の本質は呪術であり、ニセ科学性は意匠の部分だと捉えていますので、提唱者が右翼的なポジションの方で、ビリーバーがゼロリスク主張者の環境貴族や「買ってはいけない」を鵜呑みにするような批判能力に欠ける左翼的なポジションの方々だとすれば、それには一応の理屈が立っているのかな、と思っています。
黒猫亭さん、こんにちは。
「右翼/左翼」が相対的な指標であることはその通りだと思います。
ただ、それがある程度(それは時期的に数十年といったスパンで)固定していた時期があり、その軸が動き出した後もしばらくその残滓が残って固定的に使われれていたのは事実ですよね。確かに言葉の本来の意味としては時代ごとに変わるべきものとしても、その固定的な時間が長かった分、その言葉の実態への追随は遅れるのだろうなと。(私のように感じた人がいるくらいで(^^; )
そして実態の変わり具合を見て驚くわけですね。(^^;;
『水からの伝言』が呪術であるというのは非常によく解る話で、そう考えれば最近多い「強く思えば願いは叶う」的な、自己啓発を含めた「一発逆転」の心性というか、現状からの飛躍を求める(誰もが持っている)願望と結びつきやすいのは、政治的な立場などとは関係ないのでしょうね。
あと、解釈編をかなり表面的に「いい話」と捉えてそこで止まってしまい中身をちゃんと見ようとしない態度と、江本氏の右翼的発言に無頓着という姿勢も、同じことなんでしょうね。つまり「見たいものだけ見る」という。他の部分は「自分には必要ないから、見ない」という感じでしょうか。そう考えれば、実は右側の賛同者すら、江本氏のスタンスにはあまり注意を払っていないのかもしれない、という気もします。